55 マンドラコントラルトについて

 現在私たちは合奏やアンサンブルではマンドラを使いますが、この楽器は正確に言うと「マンドラテノール」といい、マンドリンよりも1オクターブ低い音程を持つ楽器です。しかし、実はマンドラにはもう一つ「マンドラコントラルト」という、ヴィオラと同じ調弦のものがあります。大きさはマンドリンとマンドラテノールの中間で、楽器は今も存在していますが、合奏などではほとんど使用されていません。
このマンドラコントラルトについて、前回の第54回雑談でも登場した武井守成氏が発行していた機関紙に書かれていますのでご紹介します。このような機関紙が戦時中にもかかわらず発行されていたことも驚きなのですが、現在においても興味深い記事が多く見られます。この記事はその一端ではありますが、武井氏の研究心の深さと共に、ギター・マンドリンにかける想いが伝わってきます。

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 マンドラコントラルト              武井 守成

榎氏が「マンドラテノーレとマンドラコントラルトの相違は生まれた楽器と作つた楽器の相違である。」と言つたのは至言である。實際マンドラコントラルトは今日迄のところテノーレだけの獨自の世界をもつてゐない。曾て米國がマンドリンギター乃至その合奏に大に力を入れた當時、テノーレ(米國流に云へばオクターヴマンドラ)を排して専らコントラルト(米國では此方をテナーマンドラと稱した)を用ゐたけれども、それは第一に理論的な音域についての優越點を目標としたのと、もう一つには、此國ではマンドリン系樂器がフラツトバツク(扁平背)に造られるのを喜んだ關係上、音性の上にテナーと大した變化を見出さなかつたからである。(但し全面的に米國式フラツトバツクの樂器の音性については私は全く同感し得ないものである事を附加へる)音域についてのみ見るならばマンドリン、リウート(及至マンドロンチエロ)マンドローネとならんだ義甲樂器(プレクトラム)の内にあつて、コントラルトの方がテノーレよりも遙に優つてゐるのは當然である。ジユゼツペ・ミラネージはそのト調四重奏曲及四重奏曲「春に寄す」に、又サルバトーレ・フアルボはその唯一の四重奏曲にコントラルトを使用した。孰れも音域の點に重きを置いた結果である事は云ふ迄もなく、ヴアイオリン四重奏を深く知るものが、テノーレよりもコントラルトを使用せんとする意圖をもつ事に不思議はない。

然し茲に最考へなければ成らない事は今日に於てコントラルトは斷じて完成された樂器でないと云ふ事である。彼は其音質に於てテノーレは勿論マンドリン、リウートマンドロンチエロの如き自己の眞の領域をもつてゐない。彼はマンドリンとテノーレとの間にあつてそのいづれにも傾かざる音をもつてゐるが、而も生硬以外の何ものでもない。ヴアイオリンに對するヴィオラを念頭にして之と等しき音域をもつコントラルトを得んとした事に反對はないが、單に音域のみに拘泥して此樂器に魂を吹き込む事を忘れた事は、今日のコントラルトを「作られし樂器」と呼ばしめる根本原因であらう。

ギターより三度高きテルツギターを作つたシユタウフエルやリースの事を考へて見たい。彼らは單に高音を持つ小型ギターを作つたのではなく、ジユリアーニ、レニアーニ等の大奏者との協力若しくは指導によつてテルツギターとしての獨自の音をもたしむる事を忘れなかつた。茲にテルツギターとマンドラコントラルトの間に、其誕生の形態の大きい相違がある。

マンドラテノーレがマンドリン系樂器中最完成された樂器である事は誰も知る通りであり、ヴアイオリン系樂器群の内に求めても比すべきもののないオリヂナリテイーをもつてゐる。彼の音性の美しさは音域上の缺點を假に大きく評價して見たところで到底打消し得ない程優れたものである。然しオクターヴ引離されたマンドリンとマンドラテノーレの中間に更に今一つの樂器が存在する事は勿論望ましい事であつて、若しコントラルトが眞に生命を持つに到るならばミラネージやフアルボの四重奏曲は初めて光を放つ事ともなるであらう。私は優れた製作家によつてコントラルトに魂の吹き込まれるのを期待してゐる。


(参考)武井 守成(1890-1949)略歴

作曲家・男爵。鳥取県知事の父、武井守正の二男として鳥取市に生まれる。東京外国語学校(東京外国語大学)イタリア語科卒。
大正2年(1919)イタリア留学。帰国後、宮内省式部官。のち、宮内省楽部長・式部官長。
マンドリン合奏団「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」を主宰。マンドリン、ギター曲の作曲家として活動した。
1923、1924年にマンドリンコンクールを、1927年には作曲コンクールを開催した。
また、雑誌『マンドリンギター研究』を発刊し、マンドリン・ギター音楽の研究・発展に尽くし大きな業績を残した。昭和24年(1949)没。