56 マンドリンアンサンブルの中のギター

今回も武井守成氏の研究文献からです。
「マンドリンアンサンブルの中のギター」と言うテーマで氏がどのように捕らえていたのか、当時のギターの存在はどうであったのかを少しご紹介してみようと思います。原文そのままではなく、現在の文章で多少要約して書いてみます。
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 マンドリンとギターとが2重奏の形で演奏されるに到った当初は、当然マンドリンが旋律を弾き、ギターが和音を担当した。マンドリンの旋律が単純なものであったのに対してギター伴奏が極めて狭い範囲の和音に終始したのも当然のことである。つまり、他の楽器に対して従的に扱われていたのである。これはフルートやバイオリンとギターの古典作品にも多く見られる。
マンドリン及びギターを主体とする合奏が起こった際、ギターが前述のように和音とリズムのためにのみに役割を振り当てられていたのはむしろ当然と言ってよいだろう。マンドリン合奏が単なる通俗曲のみを演奏していた頃はこれもまたやむなしといえるが、基礎的編成を確立し、独創的な曲が作曲される頃に到っても、なおギターの役割はさほど拡大しなかった。これは作曲家達がギターそのものを知らない為に、独創的に扱おうとしても不可能であったということが言える。

 この事実がマンドリン合奏内におけるギターを必然的に軽視する原因となった。僅かに、サルバトーレ・ファルボとジュゼッペ・ミラネージが、ギターに独創性を加えた。そしてギターのためにその地位を高めるべきと称えた私に共感したのが菅原明朗氏である。
 菅原氏自身はギターを弾くことはないが、彼の透徹した研究はギタリスト以上にギターを知っていた。彼の作品では従来の作曲家が想像ができないような様式で表われ、アンサンブルのギター奏者を面食らわせた。そして、このギターの扱い方が単に前人未到であるがゆえに、邪道と忌避しようとした向きさえあった。
 マンドリンアンサンブルの曲の大部分がギターに独創性を与えず、古く決まった形に固執していたのでは、独創楽器としての無限大の美と力を持つギターは一低級なる通俗楽器として見放されてしまう。音の色彩を出す為に幾多の要求をされるマンドリンアンサンブルにとって、想像以上の威力を持つギターを正当に扱かわず、下積みたらしめることは誠に愚かしいことである。
 中野二郎氏の「浜辺の唄」を見てみると、この曲に於いてもギターの取り扱いは概して取り立てて言うほどのものではないが、A以後の8小節は実にギターの存在意義があり、独創性を発揮している。これは極めて単純な例であるが、この様な場合であっても作曲家のギターへの理解の有無は大きく楽曲を揺り動かしているということを知れば、菅原明朗氏の「内燃機関」「大道芸人」のような傑作は引き合いに出すまでもない。

 マンドリンサンサンブルの作曲を試みる人達は、何よりもギターを研究してかかる必要がある。単に和音を並べ立ててギターを使用する位ならば、ピアノを用いてその広範なる和音に万事を委ねるほうが賢明である。

「ギターは独奏楽器としてのみ玄妙至極な美の源泉があるわけではない。」

<昭和17年9月1日発行 マンドリンとギター研究資料より>

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現在から遡って70年近く前ですが、この文章を読みますと、常にギターが脇役、という立ち位置で話が展開されていますし、実際にそうであったのだろうと思います。しかし、武井氏はその現状を憂い、何とかその域を脱して新しい境地を拓きたいという思いが伝わってきます。それは取りも直さず武井氏のたぐいまれなる研究心とギターを愛する心から来るものではないかと思います。

現在では合奏や重奏の中でもギターが思う存分生きる曲も多くなりました。それだけなく、ギターによってより生かされる楽器、楽曲も多いということも書いておかなければなりません。それだけマンドリン合奏を取り囲む環境も進化(深化)したということでしょうか。

(参考)武井 守成(1890-1949)略歴

作曲家・男爵。鳥取県知事の父、武井守正の二男として鳥取市に生まれる。東京外国語学校(東京外国語大学)イタリア語科卒。
大正2年(1919)イタリア留学。帰国後、宮内省式部官。のち、宮内省楽部長・式部官長。
マンドリン合奏団「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」を主宰。マンドリン、ギター曲の作曲家として活動した。
1923、1924年にマンドリンコンクールを、1927年には作曲コンクールを開催した。
また、雑誌『マンドリンギター研究』を発刊し、マンドリン・ギター音楽の研究・発展に尽くし大きな業績を残した。昭和24年(1949)没。