57 イタリアマンドリン界の隆盛とブレベッタート

今回は私の想像の世界のお話しです。想像力が豊かであればそれこそ作家にでもなればよかったのですが、典型的な凡才でありますので、あまり期待はしないでください。では、始めます。

 現在皆様がよく目にしているマンドリンは、19世紀半ばにパスクアーレ・ヴィナッチァ(1806年6月20日生、没年は諸説あり)という人が初めてスチール弦を使用し、この形にしたものです。もちろんそれ以前にもマンドリンは存在していましたが、全体的に小さく軽いもので、弦もガット弦(羊などの腸で作った細い紐)を使用しておりました。ですから現在のマンドリンとはだいぶ違います。前述のP・ヴィナッチァが活躍した時期以降、イタリアではマンドリン音楽の隆盛期を迎えます。
 ご存知の方もいると思いますが、マンドリンの父といわれるカルロ・ムニエルはP・ヴィナッチァの孫であり、イタリア中を回ってマンドリン音楽の普及に努めました。ちょうど19世紀後半から20世紀前半の頃です。P・ヴィナッチァの息子であるジェンナロとアッキーレの代になると、ヴィナッチァ社の最盛期を迎えることとなり、ナポリにヴィナッチャあり、と世界に知られるまでになります。その頃のナポリでのマンドリン製作には、ヴィナッチァだけでなく、弟子を含めた多くのマンドリン職人がいました。多くの職人たちも何らかの形でヴィナッチァとのかかわりがあったと考えられますが、その表れとして、楽器の作風はヴィナッチァに酷似しているものも多く、ヴィナッチァがナポリ型マンドリンの代表であることを証明しているといってもよいでしょう。

 20世紀に入り、ガエタノ・ヴィナッチァが会社を引き継ぐと、さらにその勢いは増すのではないかと思われていました。しかし、当時ヴィナッチァの地位を揺るがす楽器がローマにありました。それはルイジ・エンベルガー(1856-1943)という製作者が作った楽器でいわゆるローマ型マンドリンでした。エンベルガーはマンドリン製作者というだけではなくヴァイオリン製作家としても認められていた人で、その楽器は「マンドリンのストラディバリ」という賞賛を受けていたほどです。また、エンベルガーは演奏家たちからも認められ、著名な演奏家がこの楽器を次々と手にしました。代表的な人ではシルヴィオ・ラニエリ、マリア・シヴィッターロ、後にはジュゼッペ・アネダが良く知られているところです。

 さて、ここからは私の想像といいますか、仮説となります。このエンベルガーの台頭は少なからずヴィナッチァに影響を与えます。1920年代に入るとエンベルガーの勢いはますます強くなっていきます。ヴィナッチァはイタリア国内だけでなく、海外(日本を含む)にも輸出をしていましたが、ヨーロッパでのエンベルガーの評価はすでにヴィナッチァを超えるものでした。ヴィナッチァとしては何とか対抗策を練らなければなりませんが、これと言って有効な手立ては見つからなかったでしょう。前述しましたように、ナポリでは酷似した楽器を作る製作者がたくさんおり、その中で個性を出すのは至難の業でありました。

 そこで、ガエタノが考えたのがブレベッタート(Brevettato)です。これはイタリア語で「特許権を得る」「新案特許」と言う意味です。ブレベッタートはマンドリンだけではなく、マンドラ、クワルティーノにも確認されていますが、マンドロンチェロやマンドローネでも製作されたのかは不明です。何本ぐらい作ったのかもわかりませんが、楽器の表板にBrevettatoとVinacciaの文字が刻印されています。もちろん、当時日本で発行されていたヴィナッチァカタログにも載っていません。ただ、その作りは(ここでは詳しく書きませんが)明らかに他の楽器とは違っています。つまり、特別な存在の楽器であったと言えるでしょう。そのようにして、彼は誰にも真似が出来ない自分自身の楽器を作ることに成功したのです。そういう意味において、この楽器は希少性というだけではなく、楽器としての存在価値は大変大きいものと言えるのではないでしょうか。

 当時のイタリアは第一次世界大戦後から経済混乱に陥り、その後の世界大恐慌、そして第二次世界大戦へと進んでいってしまいました。そのような社会状況の中で、働く人々にとっては相当厳しい状況だったことが想像できます。そのような中でヴィナッチァが苦悩した末に出した結果が「特許品」だったのかもしれません。いわばこれは「最後の砦」として位置付けられ、ヴィナッチァの伝統と誇りを守るものだったといえるのではないでしょうか。そしてヴィナッチァは1934年頃(正確には不明)に製作をやめています。

※ブレベッタートという楽器はカラーチェにも存在していますが、日本ではヴィナッチァの象徴として使われることが多いので、あえて本文中カラーチェには触れておりません