54 カラーチェ来日のこと

 1924年の12月から日本に来日したラファエレ・カラーチェですが、この来日を機に日本ではカラーチェ旋風が巻き起こったといってもよいのではないかと思います。それは、カラーチェの演奏会が日本各地で開催されたことで、カラーチェの楽曲や楽器が強烈な印象を残したからでしょう。
 日本におけるマンドリン界黎明期に多大なる貢献をした武井守成氏が、カラーチェ来日の一報を受け取った時の記事が当時のオルケストラシンフォニカタケヰの機関紙に克明に記されています。当時の文章をそのままご紹介したいと思います。

 


1924年、ラファエレ・カラーチェ来日当時の写真
(カラーチェ、武井守成夫妻、カラーチェ三女夫妻)

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      カラーチェ氏の來朝
                                武井 守成

驚くべき報知は十一月二十三日突如として舞ひ込んだ。
カラーチェ氏の三女は此度在東京伊國大使館通譯官コルッチ氏と婚約成り、カラーチェ氏は自ら新婦を伴って東京へ向かつたと云ふのである。
而も同氏は十月中旬に於て既に本國を出発し十二月十二日には本邦に到着すると云ふに到つては其余りに匆急なのに驚かされる。
同氏は今回来朝を機とし、東京を初め各市に於て演奏会を開き、マンドリン及リウートの獨奏は元より、出来得べくんばオルケストラを指揮したい希望をもつて居ると云ふ事であつた。
十一月二十六日、前記コルッチ氏は宮内省に私を訪れ、私達のオルケストラが氏の演奏会に援助を興ふる事を懇願された。私は勿論カラーチェ氏の来朝が本邦斯界に必ず好刺戟を興ふる事を信ずるものであって、其為には氏に對してあらゆる支障を排しても絶對の援助を惜しまぬものであるが、それに就いては氏の企劃が如何なる程度になされて居るかを知らねば成らぬと答へた。
而してコルッチ氏の言によればカラーチェ氏は本邦に於て利益を得る事を目的としない。勿論演奏会には相當の入場料を取る事には成らうが、元來娘を送って來るのが主要な目的であつて其機會に親しく本邦斯界の現況を視察し、且自分の演奏をも聴いて貰ひ度いと云ふのであるから利益を主眼とはしないと云ふ話であつたので、然りとすれば私達は微力ながら全然好意的に出演しやう。且私としてはカラーチェ氏のオーケストレーションには絶對の同意を表し難い點もあるが、それは別問題としてカラーチェ氏の為に自由に指揮棒を取つて貰はうと答へたのである。
斯くして此一月號が發行される頃には更に具體的に話は進行して居やうし、殊によれば既にコンサートが開かれて居るかも知れない。
云ふまでもなくカラーチェ氏は現代の伊太利に於ける巨星であつて、名實ともにムニエルの後継者である。マンドリン奏者としての技能は若かりし時に比して衰へを見せて居るが、而も自作の曲の演奏にかけて他人の追従を許さぬのは云ふ迄もなく、リウティストとしては今日の第一人者である。而して最多く私達に期待されるものは作曲家としての彼である。恐らく彼は曲目を自作で埋めるであらうし、私達は彼の曲を眞個に味はふ事が出来るわけである。
幸多き我斯界に今又カラーチェ氏を迎へ得る事は非常な福音であると云はねば成らない。

 大正14年1月1日発行「マンドリン・ギター研究 1月号」より

(参考)武井 守成(1890-1949)略歴

作曲家・男爵。鳥取県知事の父、武井守正の二男として鳥取市に生まれる。東京外国語学校(東京外国語大学)イタリア語科卒。
大正2年(1919)イタリア留学。帰国後、宮内省式部官。のち、宮内省楽部長・式部官長。
マンドリン合奏団「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」を主宰。マンドリン、ギター曲の作曲家として活動した。
1923、1924年にマンドリンコンクールを、1927年には作曲コンクールを開催した。
また、雑誌『マンドリンギター研究』を発刊し、マンドリン・ギター音楽の研究・発展に尽くし大きな業績を残した。昭和24年(1949)没。